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カタン――小さな音が薄闇の室内に響き、少年はびくりと身を震わせる。
伏せていた顔を上げ、見上げる。見えたのは明かりの差し込む格子窓と、その向こうにある壁に掛けられた、序列を記す名入りの木札。
その、自分の名が刻まれた木札の下に掛けられた――奉公札ではない、見慣れぬ韓紅(からくれない)の札。
――『小鳥(カナリア)』待ちの、呼出札だ。
とうとう――その時が来たのだ。
「ジョミー」
緊張か、それとも怯えか……かたかたと小さく身を震わせている少年の肩にそっと手を置くと、その女性は柔らかな声で優しく声を掛けた。
「あなたなら、大丈夫です。ジョミー、あなたはあなたらしさを忘れないで。その溌剌とした生命力(ちから)が、きっとかの者への癒しとなります」
たおやかな声音が少年の緊張をやんわりとほぐしていく。気付けば身体の震えは止まっていた。
少年はひとつ、小さく深呼吸をすると、自分を見下ろす女性に向かい、にっこりと笑った。
「ありがとう、フィシス。……いってきます」
そして少年は閉ざされた室から一歩を踏み出す。それは未だ空を知らぬ翼が飛翔するための一歩であった。
此処は小鳥游楼廓。政府が認めたただひとつの妓楼。
空を羽ばたかぬ代わりに造られた、地に墜ちた小鳥(カナリア)たちが住まう楽園(サンクチュアリ)――
「急がないと……」
薄暗い廊下を、ジョミーは早足で進む。
蝋燭の明かりが頼りない。本当は走っていきたいのだが、走れば風で蝋燭の火が煽られ消えてしまうと、他の姉や達からきつく言い渡されている。
平素ならばそんな事気にも留めないのだが、今はそんな頼りない灯りでも消えてほしくないと思っているのだから、やはり自分は緊張しているのだ、ということを否応なく自覚する。
そう、自分は今、柄にもなく緊張しているのだ。
上手くやらなければ……そう思うなんて、全く自分らしくないと思う。普段はそんな事、考えもしないというのに。
――その反面で、緊張するのは仕方が無い、とも思う。
何せ自分にとっては今日の客が、一人の小鳥(カナリア)として初めて相手をする客になるのだ。今まで姉や待ちの客の話し相手を勤めたことはあったけれど、自分の客を持つのは初めてだった。
楼廓の子は、十四になれば小鳥(カナリア)として働くことを求められる。
付き人としてずっと共に居た姉やであるフィシスは癒鳥(チドリ)だった。癒鳥(チドリ)は身体ではなく心を慰めるための存在だから、彼女が身体を売ることは決してなかったのだ。だが自分は男だから癒鳥(チドリ)にはなれないし、もしなれたとしても誰かの心を癒す事など到底無理だとすぐに投げ出してしまうこと請け合いだ。だから、楼廓(ここ)では一介の小鳥(カナリア)として、無心に客を持て成すことが、唯一自分が出来ることだった。
誰かの為にではなく、いつか自分が空へ飛び立つために、身を削ってただ囀る。
そのためには失敗することは許されなかった。位の低い男娼(カナリア)は特に客が付きにくい。万が一客の前で失態などおかそうものなら明くる日からはもう客の無い日が続くのは目に見えている。客が付かねば年季奉公が終わらない。奉公が終わらなければ、一生をずっとこの楼廓で過ごす事になるだろう。
それだけは――嫌だった。
相手は経済特別保護区の要人だと聞いている。そんな大物が何故、今まで付き人としても碌に顔を出さなかった自分を、しかも十四になったばかりのその日に突然呼出したのかさっぱり理解らなかったが、年季奉公を終わらせるためにはこれ程絶好の客もいないだろう。裏を返せば、ここでしくじればもう二度とこのような絶好の機会が無いことを意味している。
ぐるぐると考えながら進むうちに足が止まり、はっと我に返ると慌てて足を動かす。それを幾度か繰り返し、彼はやっと目的の場所へ辿りついた。
楼廓の最上階にほど近い、奥座敷の一角――
平素であれば最高級の花鳥しか使用を許されない部屋の前に、ジョミーは立っていた。
(……お偉方には、部屋ひとつにも気を使わないといけないんだよなぁ……)
他人事のように考えながら引き戸に手をかけようとして――中から僅かに灯りが漏れている事に気付く。
呼出された小鳥(カナリア)は、先に指定の部屋に入り灯りや香の準備をするのが常だ。その灯りがすでに付いているということは、つまり。
(……もう先に着いてたんだ……)
本来出迎えて然るべき客を待たせるなど、楼廓の小鳥(カナリア)として許されるものではない。もし誰かが付いていたなら、間違いなくお咎めを受ける羽目になっていただろう。付き人のいるような立場でなかったことを今だけ感謝した。
(……落ち着け。……大丈夫、上手くやれる)
引き戸に手をかけたまま、ひとつ、深く深呼吸をする。
楽しくも無い門出だが、最初から出鼻を挫かれるのは御免だった。過ぎてしまったことはどうしようもないが、せめて形だけでも繕わなければならないだろう。
ジョミーは戸の前に座り、深く頭を下げてから室内(なか)に居るであろう客に声をかけた。
「お客様……たいへんおまたせいたしました」
髪に飾った花簪が、しゃら、と涼やかな音を立てる。
室内(なか)に居るはずの者からの応えは無い。
もしや先に居るというのは自分の勘違いで、単に先客が灯りを消し忘れていただけなのだろうか。
そんな淡い期待を抱きながら、ジョミーはそろそろと顔を上げ、ゆっくりと引き戸を開けた。
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