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 ――それは、しばらく事件らしい事件もなく、平和な日々が続いていた、ある日のこと。

 いつも通りトレーニングルームに集まり、いつも通りのメニューをこなす、いつも通りの日々。

 キースがトレーニングメニューを一通りこなし、休憩室に足を踏み入れると、室内には先客がいた。
 自分より全体的に色彩の薄い小柄な影。薄い紫のトレーニングウェアは瞳の色と相俟って良く似合っている。
 キースは声に出さず唇だけで「折紙君」と呟いた。
 折紙サイクロンこと、イワン・カレリン――彼はどうやらシャワールームから戻ってきたところだったらしい。いつもふわふわの髪はしっとり濡れていて、日焼けしない肌もじんわりと湿っている。
 イワンはキースの姿に気付くとふわりと柔らかく微笑んだ。
「あ、スカイハイさん。お疲れ様です」
「折紙君。君も休憩かい?」
「はい。さっきまでスーツだったんですけど、暑くって」
 こんなことでへばってたらヒーロー失格ですよね、と苦笑する。
 彼は最近殊に良く笑うようになった。
 以前の彼はどこか厭世的な雰囲気があったのだが、いつからだろうか、ヒーロー活動に対して積極的になり、他のヒーローの面々とも良く話すようになった。
 そして、自分とも。

   最初はどこか遠慮がちに。次に緊張した面もちで。次第に気安く、柔らかな笑みを見せてくれるようになった。
 いつも、頬をうっすらと染めながら、こちらを見上げてくる。
 無邪気で、素直な笑顔。

 そしていつの間にか、その笑顔をもっと見たいと思うようになった。
 もっと近くで。
 もっと傍で。
 その笑顔に、髪に、頬に、触れたいと思うようになった。

 その感情につける名を、知っている。

「折紙君」
「はい?」
 まだ少し滴がしたたる髪をがしがしとタオルで乱暴に拭きながら、イワンが顔を上げた。
 キースはすっと手を伸ばしイワンの手からタオルを取ると、代わりにイワンの髪を優しく拭いてやる。
 水に濡れた柔らかい髪が、タオルの布地と指先に絡む。

 キースはシャワーから戻ってきたイワンに行き会うことがあると、たまにこうやってイワンの髪を拭いてやったりする。
 その柔らかい髪に触れたいと、そう思ったときに無意識に取った行動だった。
 最初は何事かと驚いて恐縮するばかりだったイワンも、キースの撫でる指先が優しく心地良いのか次第に黙ってされるがままになっていた。
 キースもキースで、イワンに行動の理由を問われないのを良い事に、割と好き勝手にやっている。

 イワンの髪に触れる手を止めないまま、キースが囁くような声音で呟いた。
「君に、伝えたいことがあるのだが……良いだろうか?」
「え? はあ、どうぞ」
 髪を触られているせいで俯いてしまっているため、彼と視線が合わない。もう良いか、とタオルを取って手を離すと、髪を指先でくしくしいじりながらイワンが顔を上げた。

「私は、君が好きだ」

「……えっ」

 一瞬の沈黙の後。
 紫水晶の瞳をこれでもかというほど大きく見開き、驚愕の表情を見せるイワンに、キースは一歩遅れて自分が何を言ったかに気付いた。

 ――今、私はとても重大なことを、今伝えるべきではなかったことを、口を滑らせてしまったのではないか?

 勿論思ってもないことを言った訳ではない。だが本当ならもっとオブラートに包んで、しかも順を追ってできるだけゆっくりと丁寧に伝えていくつもりだったのだ。こんなに突然、しかもストレートに伝えるつもりは毛頭なかった。




















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