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噂をすればなんとやら。どんなに離れていても、自分がパートナーの姿を見間違うはずがない。
遠目から見る限り、酒が残って体調が悪いといった雰囲気ではなさそうだ。
バーナビーは少しほっとしながら一歩を踏み出した。
「こて――」
声を掛けようとして、動きが止まる。
遠くからでもわかる。手に紙袋を提げ、軽くステップを踏みながら鼻歌など歌いつつ通り過ぎていく彼は、なにやらすごく、ものすごく、機嫌が良い。
彼は割と感情が表に出やすいタイプだというのは承知しているが、あそこまで上機嫌というのも珍しい。
そうしている間にも彼はこちらに気付かないまま、軽やかなステップでエレベーターホールへと消えてしまった。
思わず声をかけそびれてしまい途方にくれる。と、隣で同じようにぽかんとした顔で突っ立っている姿に気付いた。
自分より小柄なその影は、虎徹の持っていた紙袋を眺めながら、紫水晶(アメジスト)の瞳に感嘆ともつかない感情を浮かべている。
「……折紙先輩?」
バーナビーが声をかけると、折紙サイクロン――イワンははっとして顔を上げた。
「バーナビーさん」
「どうかしたんですか?」
勿論、彼も上機嫌な虎徹のことを見ていたのだろうが。
首を傾げて問いかけると、イワンは少しだけ戸惑うように視線を彷徨わせてから、バーナビーに向かって苦笑を浮かべた。
「いえ、あの……流石タイガーさんだなぁ、と思って」
バーナビーさんもですけど、人気のヒーローはやっぱりすごいですね、と続けるイワン。
何やら感心しているらしいが、さて何に対して感心しているのかがさっぱりわからない。バーナビーは更に首を傾げる。
「流石、というのは」
「え、あれ……持ってたの、チョコレートですよね?」
「……ええ、まあ、恐らくは」
虎徹が手にしていた紙袋にはシュテルンビルトでも有名なチョコレート専門店のロゴが印刷されていた。彼がその袋をエコバッグにしているというような酔狂なことをしていない限り、間違いなく袋の中味はチョコレートだろう。
彼は甘いものも良く食べる方だが、自分からあんなものを買うようなタイプではない。誰かから貰いでもしたのだろうか。
だがチョコレートだからどうしたというのか、まるで答えが見えてこない。バーナビーは訳知り顔を浮かべているイワンに訊いてみた。
「折紙先輩、あのチョコレートが何か、知ってるんですか?」
イワンは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに合点がいったらしく「はい、あれも日本の文化なんです」と頷く。
「日本の?」
「はい。今日って、バレンタイン・デーじゃないですか」
「はぁ」
曖昧に頷く。
バレンタイン・デーといえば、恋人や親しい間柄の人に贈り物をしたりする、いわゆる愛の誓いの日というやつだ。
つい先日その日について――というのは建前で、要するに恋愛関係について――のインタビューを受けたばかりだし、何よりそれを目当てにディナーの予約をしているわけだから、今日がその日だと言うのは勿論わかっている。だがそれとチョコレートに一体どんな因果関係があるのか。
バーナビーの疑問にイワンが答える。
「日本のバレンタイン・デーはちょっと変わっていて、女性が意中の男性にチョコレートを贈るんだそうです」
「チョコレートですか」
「チョコレートです」
二人で意味もなく頷きあってから、視線を虎徹が去っていったエレベーターホールに向ける。
彼が手にしていたのはふたつ。
片方は可愛らしい柄がプリントされた小さな紙袋から、これまた可愛らしいリボンが覗いていた。そしてもうひとつ、店のロゴが印刷されていた紙袋は間違いなく、某有名チョコレート店のキャンディボックスだろう。
イワンが神妙な声音で呟く。
「……つまり、タイガーさんの持っていた、あのチョコレートは」
「……誰か、女性から受け取ったものだと……」
ごくり。誰かが生唾を飲み込んだ音がした。
その場を漂う妙な緊張感に、イワンの背に知らず冷や汗が流れる。
だが彼は果敢にも、かすれた声で更に先を続けた。
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