地平線の裾に夕焼けのオレンジを少しだけ残し、宵の口の薄闇が空をすっかり覆っている。
昼間の暑さを拭い去るような夜気を含んだ涼しい風が、青々と茂る木の葉をざわざわと揺らしている。
葉擦れの音の合間には、祭囃子の笛の音と太鼓が遠く夜空に響いていた。
オリエンタルタウンの外れにある閑静な住宅街。
半ば姿を隠した夕日に背を向けながら、三つの影が横に並んで歩いている。
小さな影を真ん中に、大きな影が両脇に。それぞれ下駄の音をカランコロンと小気味良く鳴らし浴衣の裾を捌きながら、祭の余韻を持ち帰ってきていた。
「……でね、織姫様と彦星様は離れ離れになっちゃうんだけど、一日だけ逢うことを許してもらえるの。……」
大きな影のひとつと手をつなぎながら、小さな影はご機嫌だ。相手を見上げる眼差しは、尊敬と憧れが多分に詰まっている。
そのやや後ろを歩く影が憂鬱そうにため息をつく。手を繋いで歩く二人と違い、その両手にあるのはわたあめの袋にりんごあめ、水風船にスーパーボール。ちょっと冷めてしまった焼きそばにたこ焼きの包みと、そのため息に似合わず如何にもお祭りを堪能してきたと言わんばかりだ。
ため息を聞きとがめて小さな影がきっと睨みつける。
「ちょっと、おとーさん! そんな辛気臭いため息やめてよ!」
「ンなこと言ったって楓ぇ、パパこれでも頑張ってんだよぉ?」
「全っ然そんな風には見えませんー! もう、折角晴れてるのに曇ったらお父さんのせいにするからね!」
「そんなぁ〜」
ぷいっ、とそっぽを向いてしまった小さな影に項垂れる。「ぷっ」と小さく噴出す声に顔を上げると、もうひとつの影が失笑と苦笑を綯い交ぜにしたような笑みを浮かべていた。
頭に載せたお面の隙間から思わずその影を睨みつける。
折角の夏祭りだというのに鼻緒は切れるし、荷物持ちにされるし、娘には呆れられた挙句エスコート役は奪われるし、なかなか悲惨である。
それでもまぁ、娘が楽しそうならそれでいいか、と肩を落としつつもこっそりそんな風に考えてしまう辺り、彼は如何にも父親であった。
「虎徹さん」
名を呼ばれてジト目をパートナーへ向ける。その視線に嫉妬が入り混じっていることは重々承知だ。緩くウェーブのかかった金髪に日焼けしない白い肌は明らかに欧米人といった風情なのに、和装であるはずの浴衣が似合っているのが少々憎らしい。
二人のやり取りを楽しげに眺めていた彼はそんな嫉妬の色が篭もった視線など気にする様子もなく、ひょいと前方を指差しながら言う。
「置いていかれてますよ」
冷静に指摘されてがばっと顔を上げる。小柄な楓の影は軽やかな足取りで二人の先を行っていた。
「だっ! 楓あんま急ぐと下駄脱げちまうぞッ!」
「お父さんじゃないからそんなヘマしないもーん!」
弾むような声音で返ってきた答えに、虎徹はがっくりと肩を落とした。
「ただいまー! おばーちゃん、もう笹飾ってあるー?」
「お帰り、庭に飾ってあるから、ああその前に手を洗っといで」
「はーい!」
祖母である安寿の言葉に明るい声で返事をして下駄を脱ぐとぱたぱたと家の奥に消えていく。まだまだ元気いっぱいの楓と違い、後から玄関をくぐった大人二人の顔にはやや疲労の色が浮かんで見えた。体力的な問題というよりは、若さの違いだろうか。
「二人ともお帰り……ってなんだい虎徹、楓よりはしゃいでるじゃないか」
「だッ! これは楓が買ったヤツで……!」
「いいから、あんたたちも荷物置いて庭においで」
虎徹の両手いっぱいの荷物を見て、安寿が呆れ顔を浮かべながら台所へ引っ込む。弁解もの余地もなく再びがっくり肩を落とした虎徹の手から、ひょいと焼きそばとたこ焼きの包みが消えた。
顔を上げればパートナーがにやりと笑みを浮かべている。
「行きますよ、虎徹さん」
「だーっ、待てよおいっ」
そのまま勝手知ったる足取りでさっさと先に行ってしまった彼の後を、虎徹は慌てて追いかけていった。
とりあえず適当に祭の余韻を片付け、虎徹とバーナビーが揃って庭に出ると、そこには珍しいものがあった。
「あっ、来た来た! もーお父さんってば遅いよ、もう飾りつけ終わっちゃったよ!」
先に庭に出ていた楓が浴衣姿でぴょんぴょんと跳ねている傍にあるのは、青々とした見事な枝振りの笹竹だ。それに緑や紅、黄色、白、紫といった色とりどりの紙で作られた飾りが吊るされている。
和風のクリスマスツリーだろうか? だがそれにしては時季が違いすぎる。
「これは……?」
「これがね、さっき話してた『七夕』の飾りだよ! あとは短冊にお願い事を書いて、笹の葉に吊るすの!」
首を傾げたバーナビーに、楓が楽しそうな声で説明する。七夕伝承……天の川によって隔てられてしまった織姫ベガと牽牛アルタイルの伝説は先ほど彼女が説明してくれたばかりだ。
夜風にさらさらと揺れる笹の葉は、なるほど確かに川の流れのようにも見える。小さな虫の音が僅かに響くだけの静けさが支配する夕闇の中、さやかに鳴る葉擦れの音は日常とは違うどこか神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「はい、バーナビーも!」
「え?」
笹の葉飾りをしげしげと眺めていたバーナビーに不意に渡されたのは縦長の紙とペンだ。
戸惑う彼に「それにお願い事を書くんだよ!」と言って楓はにっこり笑みを浮かべた。
「でも、僕は……」
「いーじゃねーか」
遠慮しようとしたバーナビーの言葉を遮って、虎徹が微笑って言う。
「オリヒメ様とヒコボシ様が叶えてくれるんだからさ」
そう告げる彼の手にも短冊とペンが握られている。
早速短冊にお願い事をしたため始めた二人を交互に見遣りながら、バーナビーはやれやれと小さくため息をついた。
「逢引にかこつけていい大人まで願いを叶えてもらおうなんて、何だか図々しいですね」
「いいんじゃねーの、お祝いついでってことでさ」
各々願い事を書き終え、それぞれの願いを書いた短冊が色とりどりの飾りとともに笹竹に吊るされた。
お星様によく届くように、と楓が書いた短冊はバーナビーが竹笹の一番高いところに吊るしてやった。
嬉しそうに「ありがとう」と言った少女の笑顔に、いつだったか両親と一緒にクリスマスツリーの飾り付けをしたことを思い出す。
彼女の願いは、きっと天上の星にも届いていることだろう。
時折通り抜ける緩やかな風が、青々とした笹を水面のように揺らめかせる。
笹の葉の間からは藍色に染まる夜空が覗いている。今夜は良く晴れるだろう。
手許に酒でもあれば大人二人でゆっくり酌み交わすのも良いかもしれないが、それはまた深夜のお楽しみだ。
何を話すでもなく、静かな夜空を見上げていた三人の許に、不意に家の中から安寿が呼ぶ声が聞こえた。
「そろそろ冷えてくるから上がっといで。五色そうめんも出来てるよ」
「うん、わかった!」
答えてぱたぱたと楓が家の中に入った後も、なんとはなしにその場に残った大人二人はお互い言葉を交わすでもなくただぼんやりと飾られた笹の間から覗く空を見上げていた。
夕日はすっかり姿を隠し、濃い藍色に染まりつつある空にはちらちらと星も姿を見せ始めている。もう少ししたら、見事な天の川が宵闇の空を流れるに違いない。
炭酸水に溶けた小さな泡のような、泡沫の輝き。
不意にやや強い風が、色とりどりの紙で飾った笹の葉を揺らした。
ザ……ッ
漣のような葉擦れの音。三人それぞれの願いを託した短冊が、笹の葉とともに風に揺れる。
今なお輝き続ける星のいずれかが、皆の願いを見届けているのだろうか。
楓の書いた願い――[お父さんとバーナビーがずっとかっこいいヒーローでありますように]
その短冊を笹に結わえ付けてもらいながらはにかんだ笑みを見せた楓の顔が虎徹の脳裏によみがえる。
「ンなのお願いしなくったって叶えてやるから安心しろって」と言う虎徹に「お父さんがカッコ悪いトコ見せたりしないようにお願いするの!」と反論され、思いっきりヘコんだことは都合良く忘れることにする。もっとも、それをしっかり見ていたバーナビーは覚えているのだからあまり意味はないが。
そして彼女が書いた短冊のそのすぐ下には、バーナビーが書き付けた短冊が飾られている。
書かれている願いは――[ずっと一緒にいられますように]
「誰と?」と訊ねる楓に「ヒーローとして、いつまでも皆と一緒にいられたら良いな、ということです」と微妙にニュアンスを濁した答えを返していたのを思い返し、ふっと思わず忍び笑いをする。が、しっかりとそれをバーナビーが見咎めていた。
「……なんですか」
「い〜や、別に?」
ジト目で睨んでくるバーナビーににやにや笑いを隠さないまま適当に答えをはぐらかす。
「知ってますか、思い出し笑いする人はスケベなんですよ」
「いや〜お前ほどじゃねぇわ」
「僕の場合は若さですから」
「お前ソレ言えば許されると思ってンだろ……」
呆れ顔で言って、笑い合う。
少しずつ姿を見せ始めた星たちだけが、二人の会話に耳を傾けている。
合間に揺れる笹の音だけがさらさらと響く、静かな夜。
天の川に託された小さな願い。
そして、虎徹が書いた願いは――
「――二人とも、早く来ないと楓がぜーんぶ食べちまうよ!」
「そんなに食べないもんっ!」
ダイニングからそんな声が聞こえてきて、二人は思わず顔を見合わせて、笑う。そしてどちらからともなく夜空へ背を向けた。
縁側に舞い込む風がさやさやと笹の葉を揺らす。その時ちょうど三人の書いた短冊が目に入り、バーナビーはうっすらと目を細めた。
「……叶えて下さいね、おじさん?」
「……うるせぇよ」
悪戯っぽく告げられたバーナビーの言葉に虎徹が軽口を返しながら、二人もその場を後にする。
虎徹が書いた願い――
[二人の願いが叶いますように]と書かれた短冊が、ひらりひらりと風に揺れていた。
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