目が覚めた時から、世界がぐらぐらと揺れていた。

 全身がだるい。まるで土砂降りの雨を降らせる積乱雲のど真ん中に突っ立ってでもいるように、身体中に何かがまとわりついているようで、とにかく重い。
 動かすのが、辛い。

(……んあ……、何だ……?)
 呟いたはずの喉は嗄れていて、上手く声が出せずにひゅーひゅーと空気の通る音しかしない。

(これ……ちょっとマズいか……?)
 何となく嫌な予感がして、どうにか上半身を起こす。
 全身の節々がぎしぎしと痛む。長年油を差さずに放置して錆びてきた蝶番のようなイメージに思わず顔をしかめ――そして全身の力が抜けた。
(うあっ……)
 慌てて体勢を立て直そうとするも、力が入らずそのままベッドの上に舞い戻る。

(これは……マジで、マズいな)
 身体がだるくて億劫で、このままでは出勤もできそうにない。
 とりあえず連絡しなくては、とベッドサイドに放置していた携帯に手を伸ばす。
 意識が矇朧とする。瞼が落ちてくる。視界が、ぼやけて、霞む。
 携帯が手に触れる。が、それが限界だった。
(やベ……)

 そのまま彼の意識は混濁した。





 額に触れているひんやりとした何かに、虎徹の意識は再び浮上した。

(……?)
 未だ重たい瞼をうっすらと開く。室内は薄暗い。今は何時だろう。

 すうっと触れていた何かが除けられる。
 熱を帯びていた身体にひんやりしたそれが心地良かったのに、と少し名残惜しく思っていると、今度はカタンと物音がした。

 まどろみの淵からゆっくりと意識が覚醒してくる。一人暮らしの家のはずなのに、何故物音が。

 かたん、とまた物音。そしてヒトの気配。間違いなく、誰かいる。

 虎徹はうっすら開いていた瞼を一度閉じると、す、と小さく深呼吸する。そしてもう一度ゆっくりと瞼を開く。
 今度はうっすらとではなく、はっきりと視界が明るくなった。薄暗い室内でもモノを判別できる程度の光源はある。
 そのまま視線だけを巡らせて――部屋の中にあるはずのない人影が見えた。
 こちらに背中を向けていて、顔まではわからない。だが毎日隣り合わせに仕事をしていてすっかり見慣れたその姿は後ろ姿だけでも充分判別することが出来た。

「……バニー……?」
 掠れた細い声に、背中を向けていたバーナビーが振り返った。手に何かを持っている。

「目が覚めましたか」
「お前……なんで、」
「虎徹さんが電話してきたんですよ。……覚えてないんですか?」
「電話……?」

 未だいまいち明瞭としない意識の中、記憶を手繰る。

 そういえば、とりあえずどこかに連絡を、と思い携帯に手を伸ばしたところまでは覚えている。だがその先の記憶がない。

 周りを見回すと、手に取ったはずの携帯がベッドサイドに置かれているのが見えた。

 手を伸ばして携帯を手に取る。発信履歴を見ると確かにバーナビーに連絡を取ろうとした形跡があった。ふとした拍子にリダイアルボタンでも押していたのかもしれない。

「電話が掛かってきたはいいものの無言のままだし、何かあったのかと思って来てみたら、ベッドでぐったりしているし……。起き上がれますか? 食事は」
「あー……。食べる……」

 どうにか上半身だけ身を起こす。そのすぐ近く、サイドデスクの上にかたん、とバーナビーがトレイを置いた。その上には湯気を立てたオートミールと水差し、そして空のグラスが並んでいるのが見える。オートミールの買い置きに覚えはないから、恐らく彼が持参したのだろう。
 とりあえず喉が嗄れているから、とグラスに注いだ水を手渡される。受け取ったグラスが掌に冷たい。
 躊躇いなく一息に呷り、息ををつく。渇いた身体に冷たさが泌みた。

 ようやく生き返った気分になって、虎徹は改めてオートミールの皿を手にしてベッド脇に腰掛けているバーナビーを振り仰ぐ。
 まだ身体の火照りとだるさは抜けないものの、朝よりは大分マシになったようだ。

「なんか、悪ぃな。面倒かけて」
「病人なんですから。気にしないで下さい。今までずっと無理してきたんでしょう、今日ぐらいゆっくり休んで下さい」
「無理……してたつもりは、ないんだけどなぁ……」
「ここ最近ずっと忙しかったじゃないですか」
「そりゃ、お前もだろ」
「僕は一応気を使ってますから。色々と」
 おいそれどういう意味だ、と虎徹が反駁する前に、不意に目の前にオートミールの載ったスプーンが差し出された。
 目の前に掲げられたそれに、きょとんとする。
「……虎徹さん?」
 疑問符のついた声で首を傾げられて、虎徹はもしや、と眉をひそめた。

 これはもしや、いわゆる「はい、あーん」という奴ではなかろうか。
 慌ててバーナビーの持つ皿を受け取ろうと手を伸ばす。
「や、待て、バニーちゃん、自分で食えるって」
 だがバーナビーも引こうとしない。
「無理はいけませんよ。大人しくしてて下さい」
 ひょいと虎徹の手が届かないよう、目の前から皿を取り上げてしまう。こうなれば意地でも引かないのが彼の性格だ。

 普段ならどちらかが負けを認めるまで徹底的にやり合うのだが、今日は虎徹の方が体力的に限界だった。
 はぁぁ……と長く尾を引くため息をつき、「わーったから、皿置け」と力なく呟く。
「今日はゆっくり休んでくださいって言ったでしょう。無駄な体力は使わなくていいですから」
「はいはい……」
 再び目の前に差し出されたスプーンを今度は大人しく受け入れる。
 何だか餌付けされてる雛みたいだ、という言葉は胸の奥に仕舞っておいた。





 それから差し出されるオートミールを大人しく口に運び続けているうちに、いつの間にか皿は空になっていた。

「これ、薬です。今飲むのが辛かったらもう少し後でもいいですが」
「ん、いや飲む」

 グラスに汲んだ水と錠剤を手渡される。流石にこれは「あーん」はないか、と内心ちょっとホッとしながら薬を嚥下した。

「水は? まだ要りますか?」
「いや、だいじょーぶ。サンキュー」
 空になったグラスを渡しながら、虎徹はふと思いついたことについぷっと小さく噴出す。
 グラスを受け取ったバーナビーが怪訝な顔をした。
「……? 何ですか?」
「いや、なんつうか……バニーちゃんにここまで世話焼いてもらえるとか、逆に熱上がっちまいそうだなと思って」
「な……」
 冗談めかした虎徹の発言に、バーナビーが絶句する。

 実際今日のバーナビーは食事の用意をしてくれたり薬の準備をしてくれたり挙句わざわざ食べさせてくれたりとやたら甲斐甲斐しい。
 それでも出会った頃よりはずっと性格も軟化した彼ではあるが、それでもここまで気を使われると正直くすぐったい。

 だが。
「……すみません、体調の悪いところに、逆に迷惑を」
「は!?」
 先の発言をどう受け取ったものかしゅんと項垂れてしまったバーナビーに今度は虎徹の方が慌てる番だった。
「いやいや、悪いとか迷惑とかそういう意味じゃなくて!」
 慌てて弁解する虎徹にバーナビーが困った顔をする。
 虎徹もそれにつられたように困った顔を浮かべながら「いやほら……今までだったら『自己管理がなってない』とか何とか言われてオシマイになってただろ、多分」と言葉を続ける。
「それは……」
 思わず視線を逸らしたバーナビーに苦笑する。本人とて、かなりぞんざいな態度をとってきた自覚はあるのだろう。

「だからさ。なんつうか、こう……こんなに気ィ使ってもらえるとか、思わなかったんだよ」

 実際、まさか自宅まで訪ねてくるとは思いもしなかった。
 電話だって、バーナビーに掛けるつもりなどなかったのだ。
 それなのに、彼は繋がらない電話を案じて、わざわざこうやって来てくれた。
 そして今は甲斐甲斐しく世話まで焼いてくれている。それが、素直に嬉しい。そして、何だか申し訳なかった。

「なんか、悪かったな。わざわざ」
「っ、だから、貴方は……」
 へら、と力ない笑みを浮かべた虎徹に、バーナビーが何か言いたげに言葉を詰まらせる。
 だが流石に病人に気を使ったのかいつものように感情に任せて言い募ることはせず、ぐっと何かを押さえ込んだ後大きく息をついた。
 そして顔を上げると、今度は真っ直ぐに虎徹の目を覗き込む。
 翠の瞳と正面から目が合った。

「……謝る必要なんてないって言いましたよね、僕は。いいんですよ……甘えてくれたって。パートナーじゃないですか」
「……」

 レンズの奥から覗く翠の瞳に、自分の姿が映っている。
 ベッドに半身を起こしただけの、だらしない姿。
 不意にその視線が逸らされた。
「スミマセン、忘れて下さい」
 眼鏡の弦を押し上げて、顔を逸らす。
「食器、下げてきます」
 そのまま立ち上がろうとするバーナビーの腕を、虎徹が掴んだ。
「……虎徹さん?」

 掴んだ腕は人のぬくもりを感じさせながら、どこかひんやりとしている。
 ああ、あの時触れた手はコイツだったのか、と今更ながらに気が付いた。
 何だか手放しがたくなって、思わず虎徹は苦笑した。
 今更――今更、人恋しくなってきただなんて言えなくて。

「……悪り、なんか……折角だし、ちょっと……な」
 言葉を濁した虎徹の態度に何を思ったか、バーナビーは小さく肩をすくめるとそのままもとの位置に腰を下ろす。
 すっ――とバーナビーの手が伸びて、虎徹の頬に触れた。
 ひんやりと冷たい掌が、火照った熱を奪っていく。

「……お前の手、なんか冷たくて、気持ちいい」
「まあ……あまり平熱高くありませんから」

 なんとなくバーナビーの声が、遠い。
 虎徹は彼の手に触れたまま、そっと意識を手放した。





「……」
 再び眠りの淵に落ちていった虎徹の頬を冷たくて気持ちいいと言われた掌でそっと撫でながら、バーナビーは彼を起こさないようそっと小さく息をついた。

 今朝訪ねて来た時は苦しそうだった呼吸も、今はかなり落ち着いている。これなら両日中に快復するだろう。
 彼自身は気丈に振舞ってはいたが、訪ねて来たときに疲れがにじんでやや落ち窪んだ目や、とても正常とは思えない身体の熱を目の当たりにしてぞっとしたのだ。

「もう少し……頼ってくれて、いいのに」
 ぽつり、と思わず呟く。

 もっと頼って欲しい。もっと傍にいて欲しい。もっと近しい存在でありたい。
 それはずっと思っていることだ。

 彼が自分を救ってくれたように、自分も彼の支えになれたら。
 せめて、どんな小さなことでも良いから。

 けれど、今はただ彼が力なく掴んだこの手を、離さないことだけで精一杯だった。


















dependence=依存、甘える


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