「……わ、凄い雨」
 窓を激しく叩く音に顔を上げると、外は土砂降りの雨になっていた。
 先ほどまでうだるような暑さを冗長する日差しが降り注いでいたというのに、今は厚い雲に覆われて太陽の姿はすっかりどこかへ隠れてしまっている。
 所謂ゲリラ豪雨という奴だ。最近こんな天気多いよなぁ、とため息をつきながら帝人は再びパソコンのモニターへと視線を戻す。食糧は学校帰りに寄ったスーパーで買い込んできていたし、今は特に急ぎで入用なものも特にない。
 明日の朝までに止めば良いなぁと思いながら、帝人は激しい雨音と自らがキーを叩く音をBGM代わりに、いつものチャットルームへとアクセスした。






【それじゃ、お先に失礼します】
[太郎さん、おやすー]



「……んー、眠っ」
 ログアウトボタンを押してチャットルームを退室した帝人はあくびを交えながら大きく伸びをした。
 窓の外を見るとどうやら雨はいつの間にか止んでいるようだった。
 明日の朝の心配はしなくてよさそうだが、その代わりまた湿度が上がるのかと思うと少しうんざりした気分になる。
 だが文句を言ってもどうしようもない。パソコンの電源を落とし、もそもそと寝巻きを引っ張ってきて着替えようとしたところで、不意にドアを叩く小さな音が響いた。
「……」
 すでに時刻は深夜を回っており、そろそろ寝ないと明日が辛い時間だ。
 そんな非常識な時刻にドアのノックが聞こえるなんて、非常識な人間かはたまた勘違いのどちらかだろう。
「……気のせいだよね」
 帝人は即座に後者を選択した。だが。
 がんごんごんっ、と今度は気のせいなどと言えないようなレベルで思い切りドアを叩かれ、かと思えばその向こうから恨めしげな声が聞こえてきた。
「帝人く〜ん……いるんでしょー……? 開けてよ〜……」
 どうやら前者が正解だったらしい。できれば外れて欲しかったのだが。
 帝人は肩をすくめてドアの外に聞こえるように声を上げる。
「ウチでは深夜に連絡もなしに訪ねて来るような人は不審者だから開けてはいけませんって言われましたので」
「じゃー今する」
 しばしの沈黙。やがて帝人の手許で携帯電話がメールの着信を報せた。
 一応中を確認して、ため息をつく。
「ていうか、僕もう寝るつもりだったんですけど」
「ちょうどいいから添い寝させてよ」
「嫌ですお断りします」
「……わかった、添い寝はしないからさ。ちょっとだけ入れて」
 帝人の知る彼らしからざる殊勝な言葉に眉をひそめる。もしかして何かあったのだろうかと思い、帝人は立ち上がるとそっとドアを開けた――
「……っ臨也さん!?」
 驚いて思い切りドアを開け放つ。
 ドアの向こうにあったのは全身泥と雨でずぶ濡れになった臨也の姿だった。
 前髪から雨の雫をぼたぼたと滴らせながら、今は疲労の色濃い端正な顔にへらりと力なく笑みを浮かべる。
「ゴメンね。寝るところだったんでしょ」
「な……あの、一体何があったんですか!?」
「んー、ちょっとヘマしちゃって」
「ヘマって……ああもうそれはいいや、兎に角上がって下さい、あっ、コートは脱いで! ドア閉めて!」
「注文多いなぁ」
 小さく文句を言いながらも、臨也は帝人の言うとおりにする。その間に帝人は部屋の奥から乾いたバスタオルを数枚引っ張り出す。
 一枚を畳んで玄関に延べた。
「コート、ココに置いて下さい。それとこれ、タオルです」
「ありがと」
「あっそのまま部屋に上がらないで! 濡れた服っ、脱いじゃって下さい! 今着替え用意しますから!」
「きゃーいきなり脱げだなんて太郎さんのエッチー」
「馬鹿言ってないでさっさとするッ!」
 思わず怒声を上げて手にしていたタオルをぶつける。「帝人君こわーい」とふざけた声を上げている臨也だが、その顔はいつもの精彩を欠き疲れの色が存分に滲んでいた。
 気付かれないはずもないだろうに、それでも茶化した態度で場をはぐらかそうとする臨也に寧ろ怒りすら覚えてしまう。
(僕じゃ、確かになんの助けにもならないけど)
 疲れた顔を見せたくないなら最初から来なければ良い。
 それでもこうやって訪ねてこられたら何か期待されているのではないかと思ってしまうではないか。
 少々乱暴に箪笥を漁ると、奥から以前臨也が置き去りにしていった黒のシャツとスラックスが出てきた。
 そういえば返し忘れてたんだった、と怪我の功名に感謝しながらそれを引きずり出す。
「これ着替えです」
「ん、ありがとー帝人君」
 着替えを渡し、代わりに使い終わったタオルを受け取る。しっとりと水気を含んだタオルは雨と泥ですっかり汚れていた。
(明日、洗濯しなきゃ……)
 湿度の高い夏の日の洗濯は正直億劫だ。たが文句を言ってもどうしようもない、と洗濯用のカゴヘタオルを放り込もうとして、ふとそれに泥以外のものが付着していることに気付いた。
 土色の中に混じる、鮮紅。
 それは――紛れもない、血だ。
「――臨也さん、怪我してるんですかッ!?」
 慌てて振り返る。と、丁度着替えを終えるところだった臨也が「え? ああ、うん」と頷いた。
 乾いた服の裾から覗く肌に、うっすらと赤い線が疾っている。
「ちょっとね、かすり傷」
「でも、血が」
「もう塞がってるから平気。それに俺の怪我なんだから、帝人君が気にすることじゃないでしよ」
「そんなのッ! 気にするに決まってるじゃないですか!」
「どうして?」
「どうして、って……」
 思わず言葉に詰まる。
 確かに、その怪我は恐らく臨也の自業自得だ。帝人が気にするようなことではない。
 でも、それでも。
「……心配、したら、いけないんですか」
「……」
 ぎゅっと手にしたタオルを握り締めて小さく反駁した帝人の頭上で、呆れたようなためため息。
 そして「あのさぁ帝人君」と子供を諭すような口調が続く。
「このくらい怪我のうちに入んないんだって。君だって雨降れば転んで怪我ぐらいするだろ? それと同じ。過剰な心配はさぁ、はっきりいってウザいだけなんだけど」
「……ホントに、転んだ怪我だって言うなら、僕だってこんなに心配しません」
 優しげな声音で残酷なことを告げる臨也に、帝人は消え入りそうなか細い声でそれでも反論する。
 帝人は知っている。そのかすり傷と呼べる程度の怪我のすぐ傍に、深く重い傷が存在することを。
 ナイフで刺されたのだと、軽い口調で教えてくれた。今日と同じように、ちょっとヘマをしてしまったのだと言って。
 それが命に関わる傷であることぐらい、素人の帝人にだってわかる。
 一歩間違えれば今ここに彼がいる現実そのものが存在しなかったということぐらい。
 それなのに、心配すれば余計なお世話だと押し返される。そんなものは彼にとって、何の足しにもならないのだと。
 タオルを握り締めたまま押し黙って傭いてしまった帝人の耳元に、不意にまたため息が届いた。
 顔を上げると、いつの間にか目の前で臨也が自分を見下ろしている。その表情は憂いとも歓喜ともつかぬ複雑なそれ。
「……ゴメン、ちょっとカリカリしてるんだ俺」
「……臨也さ……」
「だから、何も言わなくていいから」
 そう言って臨也は無造作に帝人の身体を引き寄せた。
「なっ、え!?」
 突然抱きつかれて裏返った声が出る。触れた身体は冷たく、芯から冷え切っていた。
「ちょっとだけ、このままにさせて」
「でも、このままだと風邪ひい」
「帝人君があっためてよ」
 肩に寄せていた頭をずるずると胸に押し付けられる。そのまま引きずられるようにしてその場に座り込んだ。
「――……」
 まるで膝枕をしているような格好のまま、臨也は帝人に抱きついて、離れようとしない。
 ドアを開けた瞬間に垣間見えた彼の顔が脳裏によみがえる。
(……あんな弱った臨也さん、初めて見たかもしれない)
 もしかしたら、かすり傷では済まないような傷を負っているのかもしれない。
 けれど、帝人はそれを敢えて尋ねようとは思わなかった。
 彼がそんなに柔な性格をしているとはとても思えなかったし、それに――
(……何かあったんだとしても、それで僕のところに来たんだとしたら、僕は――)
 押し付けられた頭の、さらさらの黒髪に触れる。まだ湿り気の残った髪は雨と泥を被ってもなお綺麗だと思った。
 触れた肌から伝わってくる冷たい体温を感じながら、帝人は心の中でそっと呟く。
(……ばかだなあ、臨也さんは……)
 気まぐれに近づいたり遠ざかったり。巻き込みたくないと思っていたり、それでもそのぬくもりを欲したり。
 彼が自分の居る場所に、帝人を引きずり込もうとしていることを知っている。
 逃れられない闇の中に、引きずり込もうとしていることを知っている。
 それなのに、彼は決して自分の闇に触れさせようとはしない。
 そっと手を伸ばすたび、嘲笑いながらその手を払ってしまう。
 たゆたう二律背反に、揺れている。
 もう、自分はとっくに覚悟を決めているのに。
 そのはずなのに。
 そっとかすり傷のある場所に手を伸ばし――だが帝人はその傷に触れようとはせず、そっと指を引っ込めた。
「……ホントに、馬鹿だ」
 触れられない自分に、或いは触れさせない臨也に。
 その一言だけを、そっと呟く。
 同じ闇の中に堕ちながら、相容れることのない道。

 窓の外ではまた、突然の雨がざあざあと音を立てて夜の闇に降り注いでいた。
















支部ログ。
何とか10巻発売前に書きたかったり(10巻出たらへこむ気がしたから)ついったで色々ネタ振ってもらったりそういえばハグの日だなと気付いたり色々悩んだらとうとうオチが行方をくらませました(いつものこと)
雨の日ってシチュエーション的に好き。



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